倉庫に「ハンドメイド作家」はいない。

更新日:5月19日


1.「ハンドメイド」をめぐる疑問


最近、「ハンドメイド作品」など「ハンドメイド」と別の名詞を組み合わせた言葉をよく耳にする。




この前は、「ハンドメイド好きの人」という言葉をきいた。


日本語では「ハンドメイド」=「手作り品」の意になるらしく、これに従って考えると

「ハンドメイド好きの人」は「誰かの手づくりの作品が好きな人」ということで、「自分で手作りすることが好きな人」のことにははらない。


でも実際には、「私、ハンドメイドよくやるんだ!」という言い回しも聞いたことがある。

この場合の「ハンドメイド」は、「手作り」を意味しているようだ。

だから、「ハンドメイド」は手作り品という品物であったり手作りという行為であったりする言葉なのだと解釈できる。


それから、「ハンドメイドマーケット」といった手作り品を販売する場も存在する。

ここでの「ハンドメイド」は、いわゆる「作家もの」とよばれる、職人などによるアート性の高い作品を意味するようである。

工場で作られた大量生産品とは異なるのだ、というニュアンスを感じる。



こんなふうに「ハンドメイド」は多義的なんだな、と思っていたところ、最近いたるところで別の新たな「ハンドメイド〇〇」のバリエーションを目に耳にするようになった。


それが「ハンドメイド作家」である。


ハンドメイド作家とは、何ぞや。

「手作り品を作る人」という意味なのかもしれないけど、でも、「手作り品を作る」ってどういうことを意味するんだろう。

私は長らく「服飾作家」を名乗っていたけれど、それは「服飾」を「作る人」だからだ。

「〇〇作家」といえばその〇〇の部分が作るものにあたる。

「額縁作家」とか「寄木細工作家」とか色々あるが、どれも「作家」の前につく名詞が「作る」という動作の対象になる物を意味するのだ。

だから、「ハンドメイド作家」って何?「ハンドメイド」を「作る人」ってどういうこと?


一点物とかアート作品をつくる人なら「職人」とか「芸術家」とか「アーティスト」とかいう呼び方で良さそうだし、もっと分野を特定する言い方をするなら、例えば「陶芸家」とか「木工職人」とかがあって問題ないと思うんだけれど、そうじゃなく「ハンドメイド」の「作家」?

つまりそれは?なんぞ?

と私は疑問に思うわけだ。

しかも、どうやらこの「ハンドメイド作家」に、私が含まれるとお考えの方もいるようなのだ。うーむ、それはだいぶ違和感だぞ。

やっぱり「ハンドメイド作家」って何なの?


というわけで、前座が長くなってしまったが、今回は「ハンドメイド」という言葉をすこし掘り下げて考えてみようと思う。



2.語源から解明を試みる


まずはひとつ、語源的なものを見てみよう。


「ハンドメイド」は、おそらく英語のhandmadeからきていることは想像に難くない。

handmade は、分解するならばhand とmadeとに分けられる。

ここでのmadeはmake(作る)の過去分詞形で、普通に訳せば「作られた」となって、

handがつくことでhandmadeは「手でつくられた(〇〇)」、ということになる。 


これの対になる概念が何かといえば、machine-made(機械製)。

hand が「手」なのに対しmachine「機械」。

手で作るのがhand-madeならば、手ではなく機械で作ったのがmachine-madeになる。

例えば、手刺繍に対して機械刺繍があるのを想像すればよろしい。

手で刺繍するのと機械(刺繍ミシン)が自動でダーッと刺繍していくのとの違いだ。

機械がなかった時代は手でやるしかなかったけれど、機械ができたから機械製の物も多くなって、手作業で作られたものと区別するためにhandmadeと machine-madeという単語もできてきたということだろう。


でもちょっと難しいのが、どこまでを「hand」もしくは「machine」とするのか、というところだ。

たとえば私は本縫いにはミシンをつかって服をつくるけれど、ギャザーや仮縫いには手縫いをすることもある。アンティーク服の再現の場合はボタンホールも手でかがる。

だから、こうやってできたものはhandmade? それともmachine-made?と思ったりする。

でもあまり深く考えない。

どっちの手段もつかってオリジナルの服を作ってるんだから、私から見たらそうやってできた作品は全てownmade (自分製)、つまり私自身が作った服、になるのだ。


翻って、縫製工場でごつい工業ミシンを使って作られる量産型の既製服だって、縫製職人が一点一点縫い上げてつくっているわけで、その職人のhandによるhandmadeと言うこともできる。

最近はポケットとかを全自動で作ってくれるハイテクミシンもでてきているようだけど、でもそれができることも一部だけで、やっぱり縫製職人のhandがミシンというmachineを使って作っている事実は変わらない。

そういう意味では、量産型既製服の職人も、私のような小規模で服を作る人間も、やっていることは全く違わないのだ。


そこで、だ。ここで元の疑問に立ち返ってみよう。

現状一般的な「ハンドメイド作家」という言葉の使い方において、もし私のことを「ハンドメイド作家」と呼ぶならば、縫製工場の職人のことも「ハンドメイド作家」と呼べるのだろうか。

たぶん、答えはNOなんじゃないかと思う。一般的には。

小規模型の私のことは「ハンドメイド作家」、量産型の縫製職人はそうではない。

一般的な「ハンドメイド作家」でという語の使われ方を見ているとそう感じざるを得ない。では、その違いは一体どこから生まれるのだろう。



3.「ハンドメイド」が覆い隠す「既製品」の実態


なぜ私を「ハンドメイド作家」と呼べて、工場の縫製職人は「ハンドメイド作家」とは呼べないのか。


それは恐らく、日本語の「ハンドメイド」や「手作り」の概念が、必ずしも「機械製」の対義語ではなく、どちらかというと「工場生産品」もしくは「大量生産品」の対義語のように使われているからだろうと私は考える。


これは工場の量産品ではなく「個人が作ったもの」、というニュアンスだ。

どうやら「ハンドメイド」がfactory-made (工場生産品)もしくはstore-made(店で作られたもの)の対義語のように使われているようなのだ。

(ちなみに、英語ではfactory-made やstore-madeの対義語はhandmade ではなくhomemade、つまり家庭で作られたもの、となる。作られる環境の比較で対になっているわけだ)


だから最近使われている日本語の「ハンドメイド」という言葉は、単なる「手製」という意味に少し改変が加わっているといって良いだろう。

「手」は「手」でも、縫製工場の大量にいる職人のうちの誰かが作ったものではなく、(たとえ知らない人ではあっても)特定できる「個人」が作ったもの、その人のhandによるものだけど「ハンドメイド」とみなそう、という改変である。


服について言えば、日本では70年代くらいから既製服(工場からやってきて店で売られる量産型の服)を買って着ることが本格的に一般化し、それまで家事の一環として存在した家人の衣服を作る作業(つまりhomemade)は個々人の趣味の範疇に移動した。


だからhomemadeの服自体が少なくなり、「服を作る人」を家庭など身近なところで目にすることも減った。翻って、店を埋め尽くすのは工場からやってきた服が当たり前で、その服の作り手がどんな人かなんて考えることはない。むしろそんな量産品に作り手がいることすら想像が及ばない。

だから「既製服は工場が作るもの」くらいに思えてしまうのも無理はないのかもしれない。

そしてそれこそ、逆に「作り手」の存在が見えるものだけを「ハンドメイド」とみなす心理を生み出す一因になったのだろうと、私は思う。



しかし、このような「ハンドメイド」の使われ方は、巷にあふれるどんな既製服も、高級ランドであれファストファッションであれ、たいがいは工場で人のが手を使って作ったものなのだ。そういう意味では大体全部handmadeなわけなのに、量産品ばかりそのhandの部分が抜け落ちて見られてしまう。


「ハンドメイド」という言葉によって、量産品にも人の手がかかわっている事実が見えづらくなってしまうのだ。

そして「ハンドメイド作家」なる呼称はさらにそれを悪い方向に加速させる。

量産品以外の作り手を「ハンドメイド作家」とみなすことで、縫製工場で量産品を縫い上げる作り手たちの存在が覆い隠され、時に劣悪な労働条件や労働環境で縫製に従事するその実態にすら目が向けられない状況が作り出されてしまう。


何気なく使われている言葉だけれど、でも何気なく使われているからこそ、なおのこと由々しき問題だと思うのだ。



まとめ. 私は「ハンドメイド作家」ではない


だから、私は「ハンドメイド作家」という言葉は使わないし、そう呼ばれたくないし、できることならばこの言葉が使われなくてすむ時代が来てほしいと思う。

最初の方ですでに書いたけれど、「ハンドメイド作家」は「ハンドメイド」を「作る人」という謎な意味になってしまうという文法構造的な問題もあるし、やはり慣れて使ってはいけない言葉なんじゃないか、と考えずにはいられない。


繰り返しになるけれど、直線縫いミシンとかロックミシンとか電気アイロンとかバキュームとかたくさんの機械を使ってものを作る私はあまりhandmadeしているとはいえないかもしれないし、私のものづくりがhandかmachineのどちらか一方に寄ることはあり得ない。


かといってhomemadeでもない。

自分で作ったものは自家消費することもある(から自身にとってはhomemadeといえなくもない)けれど、基本shopで売るのが仕事なので、私の店で売られている私の作った服は他の人からしたら紛れもないshop-made。

もちろん私という個人が作ったものではあるけれど、私以外の人にとっては「既製服」に他ならない。

私の作ったものも縫製工場の縫製職人が作ったものもどちらも他人の手がつくった既製服なんだから、その片方をだけハンドメイド」と呼ぶのはやっぱり変でしょう。


だから「ハンドメイド作家」という言葉はおかしいと思う。

私はこのチェルシエ倉庫を一人で運営する作り手なのだけど、その私が「ハンドメイド作家」でないということは、この倉庫には「ハンドメイド作家」は存在しないということだ。

そして、今後もそのようなものは存在しない。

いるのは洋裁師の私だけ。

作家という名が誤解をよびかねないのならば、洋裁師と名乗ろう。

そういうことに決めたのだ。


というわけで、これからも変わった服飾作品を生み出す倉庫の洋裁師を、よろしくお願いいたします。