下着づくりと何が関係するの?とお思いかもしれませんが、「素肌を覆うもの」という点では毛も下着も大いに共通します。
最近は日本でもVIO脱毛が流行っていますが、毛がなくなるとそれだけ肌が直接べったり下着と接するようになるわけですから、使う下着には毛のある人以上に気を遣うべきだろう、と個人的には思っています。
(絹やリネンのパンツやふんどしに変えてから臭いやおりものが気にならなくなったり、生理痛が軽減するケースも多いので、やはり下着と健康は切り離せないなと思うのです。)
とはいえ、私は生理学的・医学的な専門知識は持ち合わせていませんので、今回はそれとは少し別の文化的な観点からお話していきます。
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身体の毛に対する見方は、頭に生えているか否かでだいぶ変わるようです。
部位によっては忌み嫌われたりもする体毛。
地域や性別によっても処理すべきとされる箇所が変わったりします。
それにしても、どうして脱毛するのか、また、しなければならないと思うのでしょうか。
脱毛について考える上で、まずご紹介したいのが、こちらの本。
『脱毛の歴史―ムダ毛をめぐる社会・性・文化』
レベッカ・M・ハージグ著、飯原裕美訳 2019年 東京堂出版発行
社会文化的観点から「脱毛」をめぐる人間の行動や考え方の移り変わりを扱った本です。
アメリカでの話が中心ですが、ここで語られる脱毛への味方・意識の変化は、現代の日本社会における剃毛・脱毛文化と無関係ではないでしょう。
この本の面白いところは、いかに脱毛が「すべきもの」になったか、という概念の部分に加え、いかにそれが「可能になったか」という技術面にも言及している点です。
まず概念では、体毛の処理が文明的か否かの別とつなげられ、脱毛は「すべきもの」であるという概念ができます。
さらに脱毛すべきとみなされる箇所も変わっていきます。ポルノの影響もあり、はじめは服から出て見える部分に限定されていたものが、下着で覆われる部分にまで拡大されます。
そして、個人が手軽に脱毛できる手法が確立することで、脱毛が一般的な習慣として定着するのです。
昔の脱毛方法の話、また除毛をめぐる規範の性差の「根拠」をめぐる議論のくだりが個人的にとても面白いと思ったので、具体的なことはぜひ本を読んでください。
男女でどうして処理「すべき」体毛の箇所が違うのか、気になったことありませんか?
ぜひ手に取ってご一読ください。
(一般的な方法で入手可能な本を要約して「読んでないけど読んだ気になるお手軽ブログ」をやるのは著者に失礼だと私は考えているので、極力いたしません。)
ちなみに原書は英語で2015年に発行されていますが、原題は
“Plucked: A History of Hair Removal”です。
直訳すると「(毛を)むしられている。脱毛の歴史」という、なんとも生々しいタイトル。
pluckedは動詞pluckの過去分詞で、pluckされた状態を示します。
pluckは普通、鳥を食用に処理するときなどに羽を「むしる/引き抜く」ことを意味しますが、この本が扱うのは鳥のことではなくあくまで人間の体毛の話。
私たちは皆むしられている、という内容の訳文が本文に登場します。ちょっとギョッとしますが、これも面白いポイントではないでしょうか。
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脱毛には何らかの痛みや危険性、時間的・金銭的コストが伴うものです。
そこまでしてなぜ脱毛するんだろう?なぜしなきゃいけないことになってるんだろう?
と、少しふりかえって身の回りの「当たり前」に目を向けてみると、
自分の中の刷り込みに気づいたり、自分の行動を改めて考えるきっかけになるかもしれません。
そこから下着についても視点を広げていったら面白いんじゃないかな、と思います。
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